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切られていく木に見ていたのは、私自身の姿だった。

切られる木

私は常々「自分とつながり、自然とつながる暮らし」をしたいと思っています。

それってどういうことか。私の定義でものすごく簡単に言うと、

・「いまここ」に集中する
・自分の「感情」「感覚」を信頼し、大切に扱う

ということです。

実は先週、私のなかで大きな反応が起きてきて、自分や自然とつながるということを
ひたすら行っていたので、今日はそれを書きたいと思います◎

目次

突如始まった雑木林の伐採と、感情的な反応

私は「窓から木しか見えない家」に住みたくて、雑木林を望むように建てられた今のおうちに2年前入居しました。

その時のブログ記事がこちら▼
魔女的物件の探し方。理想的な暮らしを求めて引っ越しました。

けれども最近建物から5メートル以内の木は伐採するというルールができたらしく、
21日に家の前の木々がじゃんじゃん切られていきました。

私の中の何かが反応しまくって、何も手につかない。

私の頭や心ではこんなことが繰り広げられます。

・大好きだったのに。
・そこに木々が存在してくれるだけで、たくさん癒され励まされてきたのにな。
・いなくなってしまった…悲しい。
・さんざん自然を破壊してきた人間側の私。都合よく美味しいとこどりの家に住んでいて、偉そうなことは言えない。
・それでも何かアクションできたんじゃないか?という後悔の気持ち。
・ただ切られるのを見つめるしかない、無力感。
・木々たちに対する罪悪感。

もちろん、この雑木林はこまめに市の手が入ることで守られていて、それを享受しているので感謝の気持ちもあります。
今回の伐採も安全な生活のためだということも理解してるのです。
誰も悪くないですよね。

けど、私の中には上記のような感情がたしかに「ある」んです。

あるものは、ただあるまま、感じてあげます。

目の前に起きるできごと・そしてそれによって起こされる感覚・感情は
私たちの中に「ある」ものを見せてくれます。

例えば夫は、今回の出来事で
「自分が大切にしていたスペースが侵されていくことへの怒りと悲しさ」を一番強く感じたそうです。

私は、一番強く感じたのは
「目の前でなす術なく愛おしい命が消えていくのをただ見ているしかない無力感」でした。

そしてこの無力な感じは、きっと何度も経験ある感覚な気がしたのです。
じゃあどうするか。
「とにかく感じきって」「大人の意識で見届ける」ということをしていきます。

そして最後に切られていく木々にヒーリングを送って、自分の内側にも送り続けました。
涙が止まりませんでした(T_T)うぅ…。

そして仲間にも、SNSで「エアーハグ」してもらえるように助けを求めました。

みんなに共感を寄せてもらうことで、温かなエネルギーが届いて、だんだんと落ち着いてきました。

翌朝起きるとスカスカになった雑木林が目に入って、やっぱりまだつらかったです。

それでも、前日ほどの反応は起きてこなくなりました。

私は「木」に何を見ていたのか

少しずつ冷静になってきたところで、さらに翌日、
感じるところがありました。

わたしたちは、前提として
この世界を「自分独自のフィルター」を通して見ています。

だから、目の前の現実は、
いわば「私自身」を見せてくれているということ。

特に、「木」というのはとても象徴的で、
アートセラピーや心理セラピーなどでも度々
自分を木に例える手法が使われたりします。

私は、雑木林の木々たちに対して、どう感じたのか。

一番強かった気持ちは、上記に書いたとおり
「目の前でなす術なく愛おしい命が消えていくのをただ見ているしかない無力感」
でした。

さらに、もう少し「木」自体に焦点を当ててみると。

私の中から出てきた感覚は

「つい最近まで存在していたのに、ものの数時間でいなくなってしまった。
そしてあたかも前からそこに木なんかなかったかのように何も変わらない日常が過ぎている」
ことへの虚しさ、

そこからもっと掘り下げて

「この木々の存在は、あってもなくてもよかったようなものだったんだ」

「あってもなくても誰にも認知されない、意味のない存在」

「意味のない命」

というものでした。

これを言語化した時に、収まっていた涙がまたぽろぽろこぼれてきたのです。

これかぁ、これだ。

私は、自分をそこに重ねていたのです。

私自身が、自分のことを

「いてもいなくてもどうでもいい存在」
「誰にも認知されない意味のない存在」
「意味のない命」

だと思っていたのです。

ひゃーーーー。

心の奥底、潜在意識に眠るこの感覚。馴染み深いなぁ。

力を取り戻す

それがわかったとき。

一気に光が見えました。

もちろん、私はどうでもいい存在なんかじゃない。
そしてこの木々も、誰にも認知されない意味のない存在なんかじゃない。

…そう思ったら、パワーが出てきました。
純粋な「怒り」という感情です。

怒りって、すごく大切なんですよね。

私は、エニアグラムという人間学でいう「タイプ9」です。

タイプ9は、揉め事を極端に避ける傾向があり、
どこかで揉め事が起きても、どちらの言い分もよくわかるので、
どちらか一方に非があるとは考えないタイプです。

それはいいところでもあるのですが、そうすることによって
摩擦を避け、自分の意見を表明することができません。

そしてタイプ9は内在している「怒り」の感情を自覚できないのが弱点です。

前日の私の感覚では

>もちろん、この雑木林はこまめに市の手が入ることで守られていて、それを享受しているので感謝の気持ちもあります。
今回の伐採も安全な生活のためだということも理解してるのです。
誰も悪くないですよね。

と書いています。

まさにタイプ9的ですよね。笑
この気持ちも全く嘘というわけではないのですが、
いかにも怒りを隠した「良い子ちゃん発言」でもあります。

自分にとって大事な命ある木々が急に伐採されたことに、怒っていいのです。
怒りを健全に使うところだったのです。

とはいえ、感情的になって怒りをぶつけるのは得策ではありません。
本当に伝えたいことがこじれるだけですよね。

タイプ9<体軸>のわたしの成長の方向は、
心軸さんのようにじっくりと心を感じて、
頭軸さんのようにしっかり頭を使っていくことです。

そこで私は、「心と頭をしっかり使って」怒りを表現することにしました。

まずは、大家さんに今回のことで胸を痛めていることをメールしました。

そのあと、市政の意見箱宛に、
伐採を今からでもストップをしてほしいこと、
私はこの雑木林があるからこの市へ越して来たこと、
この雑木林は市のPR動画にも使われており、それを伐採していくことは
市にとってもかなりの損失になること等など、
ひとりよがりでなく「市にとっても損なんだよ」というデメリットをお伝えしました。
珍しく頭を使えた!笑(…実はこの案は夫がアドバイスしてくれたのですが。笑)

ひとりの意見で、正直現実が変わるとは思えません。
でも、「黙っているのは同意しているのと同じ」。

ここに、この伐採に反対している市民・都民がいるということを伝えよう、と。
(税金はしっかり払っているんだしね!!)

メールを送った翌日、市から説明の電話があり、今回の決定は東京都のものであり
市は都から委託を受けて伐採しているということと、
頂いたご意見をそのまま都にも伝えたというお返事を頂きました。

私からもダメ押しで、都の環境局にもメールをしました。

それが意味があったのかどうか?わかりませんが、
この数日伐採は止まっています。

たまたまお休みしている可能性もあります。
結局はすべて切られてしまうかもしれません。

だけど私は今、自分のことがちょっぴり誇らしいです。
遅かったかもしれないけれど、私にできることをやったよ。

あの木々の尊い命に対して敬意を払い、健全な怒りを使って、意思を伝えたからです。

この出来事は、私自身が
自分は決して無力ではなく、この生きている世界を変えていける力がある存在である
ということを思い出させてくれたと今は感じています。

【起きていることにはすべて意味がある。】

心理療法のひとつ「プロセスワーク」ではそのような考え方をして
心理セッションが進んでいきます。

私はこの考え方がとても好きです。

起きていることから、何を見出すか。

起きていることから、自分の何に気付けるか。

人生はきっとそれの繰り返しだし、

それが私にとっての「自分とつながり・自然とつながる、魔女の暮らし」であると、改めて思ったのでした。

▼窓からの景色・雑木林の一年を、感謝の気持ちをこめて動画にしました*

2分40秒のショートムービーです。

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この記事を書いた人

心理カウンセラー・セラピスト/魔法の杖Webクリエイター

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